腑に落ちないメディアの姿勢
それにもかかわらず小泉政権の経済運営を報道するメディアの多くは、改革を批判するよりも改革を支えることに努めてきた。その中でも、気になったのは朝日新聞の報道姿勢だ。小泉政権が誕生して以降の朝日新聞は「聖域なき構造改革」をある意味で「聖域」視し、批判の矛先を時の政権よりも、それに「抵抗」する反対勢力に向ける報道が目立つようになった。
「抵抗勢力」とはその名の通り小泉政権という「権力」に抵抗しているグループにすぎない。権力を使って次々と政策を決定しているのは、抵抗勢力ではなく小泉政権のほうである。「骨太の方針」に象徴される「構造改革」のプログラムも、限られた経済財政諮問会議のメンバーが小泉首相の権力を背景にして立案・決定したものにすぎない。さまざまな立場にある多様な人の意見を聞いて取りまとめられたものではない。その結果、小泉政権の進める改革には失業者やホームレス、生活保護者や障害者、母子家庭や単身の高齢者などの社会的な「弱者」の声よりも、権力に近い「強者」の思想や利害が反映される傾向が見られる。そうした政策の偏りを見逃さずに、「権力」が発する情報に関しては不断に検証し、問題があれば警鐘を発するのがジャーナリズム本来の役割だと思われる。
 その役割を朝日新聞が怠っている小泉政権の「構造改革」をめぐる同紙の報道には時の政権に対する批判精神が以前と比較して欠けているように思う。その現れの一つが、既述した二〇〇三年一月にデフレ脱却の目標時期などを先送りした「改革と展望」の改訂をめぐる同紙の報道だった。小泉政権発足後の最初の「改革と展望」が二〇〇二年一月に決定された際、朝日新聞は経済財政諮問会議で決定されたデフレ克服や成長率の目標について「〇四年度から一・五%成長、デフレ克服〇三年度に」と見出しに掲げ、諮問会議が公表した数字を批判もせずに淡々と紹介していた。同じ日の他紙は、目標の実現には相当の努力が必要なことを報じていた。すべての新聞が同じ論調である必要はないし、朝日新聞としてはこの段階ではマクロ的な経済目標よりも、財政改革の展望に報道の焦点を当てようとしていたのかもしれない。
しかし、問題はその一年後である。すでに指摘したように翌年の二〇〇三年一月の改訂で、デフレ克服などの目標は二年間先送りされた。この時点で、朝日としては先送りの事実と理由を読者に知らせるべきだったと思われる。それにもかかわらず、先送りが経済財政諮問会議で決定された翌日(一月二一日)の朝刊では、「郵貯改革も課題に、六月に『基本方針』」という見出しを掲げ、目標の先送りについては「経済財政運営の基本となる『改革と展望-〇二年度改訂』も正式に決定した」と記事の最後で簡単に触れただけで、どのように改訂されたのかさえ報道しなかったのである。同日の他紙を見ると、いずれも大きな見出しで当初の目標が先送りされたことを報じていた。
 先送りが経済財政諮問会議で決定されてから三日後の二〇〇三年一月二三日付の社説で、朝日新聞はようやく先送りの事実について論じている。そこでは一年前の甘い見通しを前半部分で批判している。しかし、後半に入ると論調は変わり、先送りの原困を当初の「甘い」見通しから、改革の「遅れ」に転嫁しはじめるのだ。そのうえで、「不良債権の処理策が本格的に動き出したのは昨年(二〇〇二年)秋の金融相交代後だ。郵政改革などでは族議員との妥協が目立ち、規制緩和も省庁の抵抗で進まない」と言って、それ以前の金融相だった柳沢氏といわゆる抵抗勢力を目標先送りの「主犯」に仕立てたのである。
当初の「改革と展望」で示された目標に関しては、実現可能性の検証もせずに経済財政諮問会議で決定された数字だけを淡々と伝え、一年後に目標が先送りされた時点でもその具体的な内容を即座には報道せず、後日、社説で先送りは「改革の遅れの帰結」であり、その責任は小泉政権の甘い見通しよりも「抵抗勢力」にあったと論じる
 
 
多様な声に耳を傾けよ
 言うまでもなく小泉政権が主張する「改革なくして成長(回復)なし」は、政治のプロパガンダ(宣伝文句)にすぎない。経済財政諮問会議はこれまで提言してきた無数の改革の中で、どの改革を実施すれば、いつからどの程度景気や成長率が回復するかを、個々の改革ごとに数値を示して具体的に説明してきたわけではない。不良債権処理に関しても、経済財政諮問会議はそれを一〇年ではなく三年で行えば経済成長を促進できると言うだけで、実際にどの程度の促進効果が、どのようなメカニズムを通して実現できるかまでは具体的に明らかにしなかった。
 そもそも、どうすれば日本経済が陥っているデフレから脱却できるのかに関して既存の経済学に定説がないことは、当時の竹中経済財政担当大臣も認めていたことだ。それなのに、二年や三年でデフレから脱却できるという目標を政治的な理由で掲げざるを得なかったことに無理があったのではない
か。その無理を見抜くのがジャーナリズムの役割である。時の政権が公表した数字をそのまま伝えるだけなら、読者としては新聞よりも政府のホームぺージを見るほうがましである。
批判されるべきは本来時間を要する改革を、すぐに実現できるかのように公言したり、成果が出ないと一転して予想外の環境変化が原困だと抗弁したり、自らの見通しの甘さを棚に上げて改革の遅れを抵抗勢力のせいにしたりしてきた小泉政権の政治手法ではないだろうか。その驕りとも言うべき強引な手法は郵政民営化法案が参議院で否決された際に行われた衆議院の解散劇でも十分に発揮されたように思う。改革の「芽」が出はじめたと小泉首相は自讃するが、その間に、職を失い、収入の途を断たれ、住まいを追われ、自助努力だけでは生活ができなくなった人が、いまの日本では着実に増加している。自殺者の多さと並んで生活保護の受給者も急増している。日本における受給審査の厳しさを思うと、生括保護の申請は生きていくための最後の手段である。そこまで追い込まれた人が、二〇〇五年三月現在で一三〇万人にも達しているのは、日本の社会がきわめて深刻な状況に陥っている証でもある。
 いったい誰が問題を放置しているのか、そもそも誰が公的な給付をカットし医療費や介護保険料の負担を引き上げて年金生活の高齢者を窮地に追いやっているのか、その「誰」という主語を欠いたままの報道が、どれほど小泉政権の擁護につながっているのかについて、ジャーナリズムはもっと敏感であるべきだ。長期にわたって日本がデフレから脱却できなかったとすれば、それは過去に改革を先送りした内閣の責任ではない。現在の経済政策を決定している小泉政権の責任だ。生括苦に陥る高齢者が増えているとするなら、それは高齢化の影響ではない。小泉政権による高齢者政策が貧困だからだ。この当然なことに対するジャーナリズムの批判不足が、結果的には小泉内閣の高い支持率を支えているのではないだろうか。
 小泉政権による「構造改革」の本当の問題は、少数の「勝ち組」と多数の「負け組」をつくり出す市場主義的な発想にあるのではなく、人間としての尊厳さえ維持できないほどに追い込まれた「弱者」を、自助努力が足りないといって切り捨てる「強者」の論理を徹底する点にある。時の政権はどのような政権であっても、政策決定の権限(衆議院の解散権まで)を牛耳る政治の「強者」なのだ。ジヤーナリズム本来の役割を発揮するためには、権力の中枢で取材を重ねるだけではなく、自らの足で外に出て多様な人の声に耳を傾けることを忘れてはならない。
 
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